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さくらのみのじゅくするとき
桜の実の熟する時
島崎 藤村
「文章世界」1913(大正2)年1~2月、1914(大正3)年5月~1918(大正7)年6月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 111,569 字 · 222 页
塀一つ隔てた学校の内部の方のことは手に取るようにこの雑誌社まで伝って来ていた。それにこの人達は学校の食堂で賄って貰って、三度々々食事のために通っていたから、教師としての捨吉が知らないようなことをも知っていた。
「お磯さんという人は確かに将に将たる器でしょうね」
人物評の好きな連中はそこまで話を持って行かなければ承知しないらしかった。捨吉は黙って自分の教える若い人達の噂を聞いていた。そのうちに勝子の名が出て来た。
「安井お勝さん――あの人も好い生徒だそうですね」
とその学生が榊に言った。それを聞いた時は、思わず捨吉は紅くなった。
不思議な変化が捨吉の内部に起って来た。その年の暑中休暇を捨吉は主に鎌倉の方で暮したが、未だ曽て経験したことも無いほどの寂しい思をした。その一夏の間、僅かに彼の心を慰めたものは、鎌倉でしばしば岡見を見たことだ。鎌倉にある岡見の隠栖は小さな別荘というよりも寧ろ瀟洒な草庵の感じに近かった。そこへ岡見は妹の涼子を連れて来ていた。捨吉は言いあらわし難い自分の心持を制えようとして、さかんな蛙の声が聞えて来るような鎌倉のある農家の一間で、岡見が編輯する小さな雑誌の秋季附録のために一つの文章をも書いた。