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さくらのみのじゅくするとき

桜の実の熟する時

島崎 藤村

「文章世界」1913(大正2)年1~2月、1914(大正3)年5月~1918(大正7)年6月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 111,569 字 · 222 页

青空文庫

柔々しくはあるが、それだけまた賢そうな眼付をした、好い妹を有つ岡見を羨みながら、捨吉は牛込の下宿の方へ帰って行った。自分に妹の一人もあったら。この考えは捨吉を驚かした。五人ある姉弟の中での一番末の弟に生れた彼は、ついぞ妹を欲しいというようなことを胸に浮べた例も無かったから。

丁度捨吉が下宿の前あたりまで帰って行くと、静かな坂道の上の方から急ぎ足に降りて来る一人の若い婦人に逢った。麹町の学校の卒業生の一人だ。吉本さんの住居や学校の方で二三度捨吉も見かけたことのある、稀な眸の清しさと成熟したすがたに釣合った高い身長とを有った婦人だ。この婦人も捨吉と同じ下宿をさして急いで来た。

一目見たばかりで、捨吉はこの若い立派な婦人が何を急いでいるかを知った。婚約のある情人を訪れようとして息をはずませながら、しかも優婉さを失わずにやって来たようなこの婦人を見たことは何を見たにも勝って、沈んだ思を捨吉に与えた。

堪えがたい寂しさは下宿の離れ座敷へも襲って来た。しかし捨吉はそうした心持から紛れるような方法を見つけようともしなかった。独りでその寂しさを耐えようとした。