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もみノきはのこった

樅ノ木は残った

山本 周五郎

04 第四部

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 145,078 字 · 285 页

青空文庫

――そうだ、あの頃もそう思った。

甲斐は自分の気持をふり返ってみて、ひそかに苦笑した。子供はなにも感じてはいないだろう、伸びてゆくいのちは伸びることでいっぱいだ。親との縁の薄いことを、感じとるような隙間はありはしない。自分がこんなふうに考えるのは、ばかげた親の煩悩にすぎまい。まさしく煩悩というにすぎない、と甲斐は心の中で苦笑した。

机の上を片づけ、道具をきちんと始末してから、かよが遊びに出てゆくと、おくみは濡れた眼で甲斐をみつめながら訊いた。

「あなたは世間の噂をご存じでしょう」

「噂にはもう馴れている筈だ」

「あたしがですか」

「万治の大変があって十年このかた、私についての噂には飽き飽きしている筈だ」

「こんどはそうではございません、そうではないということをご存じでしょう」

「酒がないようだぞ」

「雁屋の兄からも聞きました」おくみは構わずに続けた、「涌谷さまが訴訟のために出府を許されてから、御譜代、外様の大名がたでいろいろと評があり、会津中将(保科正之)さまでさえ、一ノ関が悪いと仰せられているということです」

「それは信助から聞いたことか」

「兄は根のないことを云う人間ではございません、お出入りする大名がたの多くが、兵部さまを非難し、あなたも一味の者で、兵部さまと共に御家中の仕置を乱している、と云っているそうです」