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もみノきはのこった
樅ノ木は残った
山本 周五郎
04 第四部
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 145,078 字 · 285 页
広縁に出て左へ曲った。渡り廊下を渡ると、向うは一段高くなっており、伊達家の人びとの宿坊が並んでいた。白い障子を閉したそれらの座敷に添って、高廊下をゆき、もういちど左に曲ると、原田家の座敷の前へ出た。宇乃はそこで立停って、昏くなりはじめた庭のかなたを見た。そこに樅ノ木があった。彼女の眼は蘚苔の付いた石燈籠も、境の土塀も見ず、まっすぐにその樅ノ木を見た。九年まえに見たときと、さして違ったようには思えなかった。幹も太くなり丈も伸びたが、他の木のようには育たないのであろうか。宇乃はそっと、なにかをおどろかせまいとするように、忍びやかにそこへ坐った。
宇乃が高廊下へ坐ったとき、こまかな雨の中に、白いものがちらちら混るのが見えた。
「おじさま」宇乃は樅ノ木に向かって、口の中で囁きかけた、「――宇乃でございます」
眺めているうちに、白いものはしだいに多くなり、そのため、くろぐろと枝を張った樅ノ木が、はっきりその姿をあらわすように思えた。
――私はこの木が好きだ。
初めてここで会ったとき、甲斐はその樅ノ木を宇乃にみせて云った。
――この木を大事にしておくれ。
そのときの甲斐の、やわらかな声や、白い歯の覗くやさしそうな顔が、いまでも記憶に深く残っている。