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もみノきはのこった
樅ノ木は残った
山本 周五郎
03 第三部
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 167,285 字 · 330 页
「本当に主でしたの」
「どうだかな」甲斐は喉で笑った。
「それから、ここへ鯉を釣りにいらっしゃいますの」と宇乃が訊いた。
甲斐はそっと頷いた、「生きていたら、もういちど会いたいと思ってね」
「もう何十年も経つのでしょう」
「私が九つのときだからね」
「まだ生きているでしょうか」
「その子でもいいんだ」と甲斐が云った。
宇乃はじっと流れを見まもり、心のなかで、くびじろのようだ、と思った。あのくびじろも、ながいこと追っていらしった。おじさまは人間よりも、鹿や魚のほうを愛していらっしゃる。樅ノ木や、鹿や、古い鯉などのほうが、人間よりもお好きなのだ、と宇乃は思った。
――どうしてだろう。
どうしてかしら、と思い、そういう甲斐がいかにも孤独で、寂しい人のように感じられ、われ知らず太息をつきながら、そっと甲斐の横顔を見あげた。するとその、宇乃の視線を感じたのだろう、甲斐が静かに振向いた。
「退屈になったな」と甲斐が云った。
宇乃はいいえとかぶりを振った、「おじさまと二人だけなら、いつまででも」
宇乃は囁くように云った。あまりに低い声だったので、その囁きは流れの音に消され、甲斐には聞きとれないようであった。