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もみノきはのこった

樅ノ木は残った

山本 周五郎

03 第三部

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 167,285 字 · 330 页

青空文庫

――館の中で、彼女は殆んど孤立していた。一日にいちど、隠居所へ挨拶にゆくほかは、自分の化粧室で、実家から付いて来た三人の待女を相手に、ひっそり暮しているのであった。

帯刀は「あの人」と云った。彼が伊久女となじまないことは、宇乃も知っていたが、いまの眼の色や、あの人、という言葉つきには、単になじまないばかりでなく、むしろ反感をもち、嫌っているということがあらわれていた。あの方のどこがお気にいらないのだろうか。帯刀の温順な性質を知っているので、宇乃にはそれが意外でもあり、理解がつかなかった。

彼は灌木の繁みをわけて、斜面を登ってゆき、茱萸の枝を折って来た。熟れて紅玉のような色をした実が、びっしりと生っている枝で、彼は手指を傷つけていた。茱萸の枝の棘にひっかけたのだろう。右手の中指に掻き傷があり、血がにじんでいた。

「ちょっと縛りましょう」宇乃はふところ紙を出した。

「いいよ、なんでもない」

「だってとがめるといけませんもの、ちょっと縛るだけ縛っておきましょう」

紙を細長く折り、宇乃は帯刀の手を取って、傷ついた指へ口を当て、血を吸い取った。宇乃の唇が指に触れたとき、帯刀の手がぴくっとなり、彼は息を詰めた。