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もみノきはのこった

樅ノ木は残った

山本 周五郎

03 第三部

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 167,285 字 · 330 页

青空文庫

「眼の迷いだ」と甲斐は云った。それは自分の聞いたのが幻聴にすぎなかった、ということを、自分に慥かめるような調子であった。

「そしてまた今夜も」とおくみは続けた、「夢のなかへきれいな女が出てきて、邪魔をするようなことを云うなんて、同じようなことが二度もあるなんてへんだわ」

「少しはなれないか」

「きっと誰か嫉んでいるのよ」

「暑い、少しはなれてくれ」

「誰かいるのね、そうでしょ」

おくみは甲斐の躯へ手をまわした。片手で甲斐の持っている団扇を取って投げ、きっと誰かいるのよ、と云いながらのしかかろうとした。甲斐は顔を急にそむけながら、はっきりした声で「起きているぞ」と云った。

おくみはとびのいた。すると襖の向うで村山喜兵衛の声が聞えた。

「松山さまがみえました」

「――松山だと」

甲斐はいぶかしそうに聞き返し、そして、すぐにゆくからいつもの座敷へとおすようにと云って、「いまなん刻であるか」と訊いた。喜兵衛は襖の向うから、やがて七つ(午前四時)になろう、と答えて去った。

「つまらない」とおくみは云った、「十一年めでようやくおもいがかなったのに、ゆっくりお話しをすることもできないんですもの、つまらないわ」