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もみノきはのこった

樅ノ木は残った

山本 周五郎

03 第三部

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 167,285 字 · 330 页

青空文庫

「わかった、あのときの男だ」と新八は云った、「いつか向島の土堤で、石川兵庫介さんに掠われようとしたとき、駆けつけて来て助けた男だ、そうだろう」

「ええ、そうです」

おみやはわるびれずにはっきり頷いた。新八はにやっと笑い、さぐるような眼つきで、おみやをじろじろ眺めながら云った。

「わかったよ、よくわかった、もうできちゃったんだな」

「新さん」とおみやが眼をあげた。

「ごまかすな、おれは見ていた」と新八は唇を歪めた、「おれははなれて見ていたんだ。おまえはその男を伴れて、あの茶店へ戻った、気がつかなかったろうが、おれはあのときあとを跟けていって、二人で茶店へはいるのを見たし、半刻ちかくも外で待っていたんだ」

「ええ、そのとおりよ、新さんの見ていたとおりだったわ」

「あのときできたんだな」

「違うわ、それだけは違うわ」

「あのときできたんだ」と新八は自分で頷いた、「おまえはそういう女だ、おれはよく知ってるが、男と二人で、半刻ちかくも茶店の奥にいて、なにもしないなんてことができる性分じゃあない、おまえはあのとき、もう男をものにしていたんだ」

「いいわ、そう思うなら思ってちょうだい、あたしがそんな女だったということは、自分でも知っているし、そうじゃないなんて云いはしません、けれども、黒田さんはあたしなんかとは人間が違うんです」