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しほんたいへいき

私本太平記

吉川 英治

03 みなかみ帖

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 126,598 字 · 254 页

青空文庫

「そんなことでは」

彼は、自分の中にいる小心恟々たるケチな小鬼を叱咤した。

機会は来た。

虫しぐれの宵だった。月にでも誘われ出たか、大判事その人が、供もつれず、ただ一人で、灯もなき河畔をそぞろ歩いてゆく。――今だっと、草むらの露を刎ねて、彼は這い走った。

もう相手の背は、寸前にある。が、その寸前に、

「誰だっ?」

章房の眼が、生き生きと、彼を振り向いた。

せつなを、逸すべきではない。だのに元成は、後ろへ跳んだ。もう刺客の資格は失っていたのだった。

しかし、元成は、章房の眸のさきに、異様な覆面姿を、砕かれた物ノ怪みたいに、ひれ伏していた。いつか彼の本心では、章房の人物を、尊敬していたのであろう。慚愧して、自白してしまった。

「もしっ……、お気をつけなされませ。御一命は、狙われています。自分は、刺客に不適な者、消え失せますが、世はただならぬ世」

すると、立ち去る彼の後ろで、章房の笑う声がしていた。

「刺客、そう慌てるな。いまの注意、ありがたいが、覚悟の前だ。覚悟なくして、あれほどなこと、みかどのおん前で、いえるものかは」

――転じて。

西華門院の局のうちから、卯木の姿が見えないと騒がれ出したのは、元成にそのことがあってから数日後の、暗い秋雨が吹きすさんで明けた一夜だった。