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しほんたいへいき

私本太平記

吉川 英治

03 みなかみ帖

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 126,598 字 · 254 页

青空文庫

愛馬の青毛や、供の者を外において、正成はいつものような機嫌で、迎える家族たちの顔の中を、式台から奥へ通って来た。

「おう正季。お汝も来ていたのか」

「ちと御相談があって、お疲れの折とは思いましたが」

「何ぞ、急用かの」

「は。明日の打合せで」

「待ってくれ。……久子」

と、妻を見て、

「風呂は」

「ご用意してありまする」

「正季。一しょに、一ト浴みせぬか。なにしろ、この汗と埃だ」

「ま。あちらで、お待ちしておりましょう。どうぞお先に」

正成は湯殿口で、妻の久子に、夜の膳には、酒をつけよ、といいつけてから衣服を脱いだ。弟の酒好きを知っているからだろう。

湯につかる。

掛樋の水も、ポトポトと心ぼそい。

だが、人間にはまだ、使うだけの水がある。田や畑の物は、だまって、旱の猛威の下に枯れているが、これが人間だったら、どうだろう。そんな世もやがて来ないとは限らない。

「おもえば恐い」

こんな山間の、せまい領下を、今日半日、歩いてみても感じられる。

世相は、けわしい。人心はカサカサだ。あらゆる事態が、世間を可燃性なものにすべく努めている。火ツケ役の出現を待っているような相である。