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なおこ

菜穂子

堀 辰雄

楡の家 第一部「物語の女」山本書店、1934(昭和9)年11月<br> 楡の家 第二部「文学界」1941(昭和16)年9月号<br> 菜穂子「中央公論」1941(昭和16)年3月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 88,758 字 · 173 页

青空文庫

を見舞ったのは、つい此の間の事のように、何もかもが記憶にはっきりとしていた。社での一日の仕事が終り、夕方の混雑の中を疲れ切っておもわず帰宅を急いでいる時など、ふと其処には妻がいない事を考えると、忽ちあの雨にとざされた山の療養所であった事から、帰りの汽車の中で襲われた嵐の事から、何から何までが残らず記憶によみ返って来るのだった。菜穂子はいつも、何処かから彼をじっと見守っていた。急にその眼ざしがついそこにちらつき出すような気のする事もあった。彼はときどきはっと思って、電車の中に菜穂子に似た眼つきをした女がいたのかどうかと捜し出したりした。……

彼は妻には手紙を書いた事が一遍もなかった。そんな事で自分の心が充たされようなどとは、彼のような男は思いもしなかったろう。又、たといそう思ったにしろ、すぐそれが実行できるような性質の男ではなかった。彼は母が菜穂子とときおり文通しているらしいのを知ってはいたが、それにも何んにも口出しをしなかった。そして菜穂子のいつも鉛筆でぞんざいに書いた手紙らしいのが来ていても、それを披いて妻の文句を見ようともしなかった。唯、どうかするとちょいと気になるように、その上へいつまでも目を注いでいる事があった。