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なおこ
菜穂子
堀 辰雄
楡の家 第一部「物語の女」山本書店、1934(昭和9)年11月<br> 楡の家 第二部「文学界」1941(昭和16)年9月号<br> 菜穂子「中央公論」1941(昭和16)年3月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 88,758 字 · 173 页
そんな時には、彼は自分の妻が寝台の上に仰向いた儘、鉛筆でその痩せた頬を撫でながら、心にもない文句を考え考えその手紙を書いている、いかにも懶そうな様子をぼんやりと思い浮べているのだった。
圭介はそう云う自分の煩悶を誰にも打ち明けずにいたが、或日、彼は或先輩の送別会のあった会場を一人の気のおけない同僚と一しょに出ながら、不意と此の男なら何かと頼もしそうな気がして妻のことを打ち明けた。
「それは気の毒だな。」一杯機嫌の相手はいかにも彼に同情するように耳を傾けていたが、それから急に何を思ったのか、吐き出すように云った。「だが、そう云う女房は反って安心でいいだろう」
圭介には最初相手の云った言葉の意味が分からなかった。が、彼はその同僚の細君が身持ちの悪いという以前からの噂を突然思い出した。圭介はもうその同僚に妻のことをそれ以上云い出さなかった。
そのときそう云われた事が、圭介にはその夜じゅう何か胸に閊えているような気もちだった。彼はその夜は殆どまんじりともしないで妻のことを考え通していた。彼には、菜穂子のいまいる山の療養所がなんだか世の果てのようなところのように思えていた。