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なおこ

菜穂子

堀 辰雄

楡の家 第一部「物語の女」山本書店、1934(昭和9)年11月<br> 楡の家 第二部「文学界」1941(昭和16)年9月号<br> 菜穂子「中央公論」1941(昭和16)年3月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 88,758 字 · 173 页

青空文庫

いた。

彼女は改めてそう云う相手の昔とそっくりな、おとなしい、悪気のない様子を見ていると、なぜか痙攣が自分の喉元を締めつけるような気がした。しかし又、此の数年の間、――殊に彼女が結婚してからは殆ど音沙汰のなかった明が、何のためにこんな冬の日に突然山の療養所まで訪ねて来るような気になったのか、それが分からないうちは彼女はそう云う相手の悪気のなさそうな様子にも何か絶えずいらいらし続けていなければならなかった。

「そこいらにお掛けになるといいわ」菜穂子は寝たまま、いかにも冷やかな目つきで椅子を示しながら、そう云うのが漸っとだった。

「ええ」と明はちらりと彼女の横顔へ目を投げ、それから又急いで目を外らせるようにしながら、端近い革張の椅子に腰を下ろした。「此処へ来ていらっしゃるという事を旅の出がけに聞いたので、汽車の中で急に思い立ってお立寄りしたのです」と彼は自分の掌で痩せた頬を撫でながら云った。

「何処へいらっしゃるの?」彼女は相変らずいらいらした様子で訊いた。

「別に何処って……」と明は自問自答するように口籠っていた。それから突然目を思い切り大きく見ひらいて、自分の云いたい事を云おうと思う前には、相手も何もないかのような語気で云った。