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むし
虫
江戸川 乱歩
一~四「改造 第十一卷第六號 六月號」改造社、1929(昭和4)年6月1日<br>五~十二「改造 第十一卷第七號 七月號」改造社、1929(昭和4)年7月1日
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 44,053 字 · 86 页
そして、ある絹ずれの音や、ある溜息の気配を耳にした時には、彼は恐怖の為に、膝から下が無感覚になって、ガクガクと震え出しさえした。
彼はたった一人で、薄暗い襖の外で、あらゆる羞恥と憤怒とを経験した。それで充分であった。若し彼が普通の人間であったら、二度と同じ経験を繰返すことはなかったであろう。いや、寧ろ最初から、その様な犯罪者めいた立聞きなどを目論見はしなかったであろう。だが、柾木愛造は内気や人厭いで異常人であったばかりでなく、恐らくはその外の点に於いても、例えば、秘密や罪悪に不可思議な魅力を感ずる所の、あのいまわしい病癖をも、彼は心の隅に、多分に持合わせていたに相違ないのである。そして、その潜在せる邪悪なる病癖が、彼のこの異常な経験を機縁として、俄かに目覚めたものに違いないのだ。
世にもいまわしき立聞きと隙見とによって覚える所の、むず痒い羞恥、涙ぐましい憤怒、歯の根も合わぬ恐怖の感情は、不思議にも、同時に、一面に於ては、彼にとって、限りなき歓喜であり、類もあらぬ陶酔であった。彼ははからずも覗いた世界の、あの兇暴なる魅力を、どうしても忘れることが出来なかった。