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しじみだに
蜆谷
山本 周五郎
「新読物」公友社 、1947(昭和22)年3月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 13,957 字 · 28 页
下り坂にかかると沢の音が聞こえてきた。蜆谷の流れである。琵琶湖に向かって下る鈴鹿山脈の支峻が、もうほとんど平野に接する地形で、谷といっても深くはない、高さ三十間ほどのなだらかな丘と丘にはさまれた峡間を、犬上川へ落ちる川があって、質のよい蜆が多くとれる。湖畔の村々へ種蜆として出すくらいで、蜆谷という小名もそこからきたのだろう、子供のころから二十余年、朝な夕なに耳なれたその水音を聞いて、弥之助は胸がいっぱいになり涙がこみあげてきた。
――とうとう帰って来た、生きてあの水音を聞くことが出来た。
心の中でそう呟やきながら、杉林をぬけくぐりつつかなり勾配の急な坂を下りていった。……土橋を渡り、平地へ出たところから麻畑になる、彼は裸になったその麻畑の細い畦道へはいり、藪をまわって地蔵堂の横へ出た、そこから一段低くなった杉林の中に、自分の家があるのだ。彼は道なりにゆくのがもどかしくて、地蔵堂を過ぎたところから下の畑へとびおりた、もうひとまたぎだ、杉林をつきぬければわが家の背戸である。しらみはじめた未明の光のなかに、もう家の屋根が見える。
――おっ母さん。
彼はそう呼びたい気持でかけだしたが、杉林を出ようとして足を止めた。