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ろんごものがたり

論語物語

下村 湖人

「現代」大日本雄弁会講談社、1938(昭和13)年

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 132,688 字 · 266 页

青空文庫

彼のいらいらした気分は、それですっかり消えてしまった。

これに反して、顔淵のしずかであった顔は、うすく紅潮して来た。彼は、これまでいく度も、今度こそは孔子の境地に追いつくことが出来たぞ、と思った瞬間に、いつも、するりと身をかわされるような気がしていたが、この時もまたそうであった。彼は、自分が依然として自分というものに捉われていることに気がついた。先生は、ただ老者と、朋友と、年少者とのことだけを考えていられる。それらを基準にして、自分を規制して行こうとされるのが先生の道だ。自分の善を誇らないとか、自分の労を衒わないとかいう事は、要するに自分を中心にした考え方だ。しかもそれは頭でひねりまわした理窟ではないか。自分たちの周囲には、いつも老者と、朋友と、年少者とがいる。人間は、この現実に対して、ただなすべき事を為して行けばいいのだ。自分に捉われないところに、誇るも衒うもない。――彼はそう思って、孔子の前に首をたれた。

孔子は、自分の言葉が、自分の予期以上に顔淵の心に響いたのを見て取って、云い知れぬ悦びを感じた。けれども、かんじんの子路が、何の得るところもなく、相かわらず浅薄な自負心に災いされているのを見ては、ますます心を暗くせずには居れなかった。