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つげびと

野菊の墓

伊藤 左千夫

伊藤左千夫『野菊の墓』。同一底本的分册已合并为一书。收入:告げ人、箸、老獣医。

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 34,955 字 · 71 页

青空文庫

花前もここに早一年おってしまった。この間、花前の一身上には、なんらの変化もみとめえなかった。ただ考え性な主人の頭には、花前のように、きのうときょうとの連絡もなく、もちろんきょうとあすとの連絡もない。まして一年とかひと月とかいう時間の意味のありようもなく、かれは生きるために働くのでなく、生きているから働くというような生活、きょうというほかに時間の考えはなく、自分というほかに人生の考えはない。いやきょうということも自分ということも意識していやしない。

してみると、かれに義務責任などいう考えのありようもなければ、きゅうくつも心配も不安もないわけだ。明るいところに魔の住まないごとく、花前のような生活には虚偽罪悪などいうものの宿りようがない。大悟徹底というのがそれか。絶対的安心というのがそれか。むかしは、宰相を辞して人のために園にそそいだという話があるが、花前はそれに比すべき感がある。

主人はまたこう考えた。かえりみて自分の生活をみると、じつになさけないとらわれの身である。わずかに手を動かすにも足を動かすにも、あとさきを考えねばならぬ。かりそめにものをいうにも、人の顔色を見ねばならぬ。