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なべしまかいのかみ

鍋島甲斐守

吉川 英治

「オール讀物」文藝春秋、1936(昭和11)年9月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 11,322 字 · 23 页

青空文庫

『……どこへ行ったんだ?』

家の中を見まわして、彦兵衛はつぶやいていたが、すぐ次の暗い部屋へ入って、腕くびから数珠を外し、

『なむあみだぶつ、なむあみだぶつ、なむあみだぶつ……』

彦兵衛にたった一つの道楽はこれだった。自分の心に咎めるような事をした後では、きっとそこへ入って念仏を云う。念仏さえ云えば、どんな業もたちどころに消滅するもののように考えているらしいのである。

『……なむあみだぶつ、なむあみだぶつ』

今夜はすこし気持が悪かったとみえて、その念仏が長かった。蠣浜橋の袂で、狂気したような銀左衛門につかまって、頬ぺたを二つ三つ撲られ、何をいわれたか、こっちはただもう御尤の一点張りで、生命からがら逃げて来たのであった。

(もう来まい)

とは思うが、あの時、刀のつかをにぎって睨んだ銀左衛門の眼がまだこびりついていて、背すじから恐怖が去らなかった。

『なむあみだぶ、なむあみだぶ……』

すると、勢よく、表の格子があく音がした。

『――お高かい?』

首を伸ばすと、途端に、祭礼の揃いの浴衣を着た若い男が、泥足のまま畳へおどり上って来て、祭団扇で外を煽いだ。

『やあーい、交際い知らずの、人非人の、我利我利野郎の家へ、天王様を振り込め』