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ゆきのうえのしも

雪の上の霜

山本 周五郎

「面白倶楽部」光文社、1952(昭和27)年3月~4月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 25,586 字 · 50 页

青空文庫

九

彼はうしろへしさって、「――ほんのちょっとでかけてまいりたいんです、すぐ帰って来て、そしてすぐにおいとまします、ほんの半刻ばかり出てまいりますから」

そして彼は、忙しげに立って、その部屋を出た。すると、廊下のそこに、千草がいた。伊兵衛はどきっとし、

「ああこれは、どうも」

吃りながら、おじぎをした。千草はこちらを見あげた。暗いのでわからないが、泣いていたようなそぶりであり、息づかいであった。

「済みません」伊兵衛は囁くように云った、「――どうぞ勘弁して下さい、どうぞ、ごめんなさい」

子供が母親にあやまるような、哀しげな声であった。千草はなにか云いそうにみえたが、黙って顔をそむけて、力の抜けた歩きぶりで、向うへ去った。伊兵衛はそのうしろへ、もういちどおじぎをしてどこかへ出ていった。

九

まさに春暖である。

遠い山にはまだ雪が見えるけれども、畑には麦が伸び、菜の花が咲きさかっている。道端には草の芽がやわらかく萠え、林も薄紫に霞んでみえる。日は暖かく、風も……風は少しあるが、いかにも春らしい軟風で、歩くには却って爽快なくらいだった。

「それで、それからどうなさいました」