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きりのばんしゃ

霧の蕃社

中村 地平

「文学界」1939(昭和14)年12月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 28,389 字 · 57 页

青空文庫

兄のモーナや、頂きにスカーフのような霧をまきつけている辺りの山々やに別れを告げて、二人が霧社を旅だった時、それは丁度晩春の季節であった。謂わば期せずして新婚旅行になったわけであり、二人はただわけもなく嬉々として、高い山々の、嶮しい坂径を花蓮港へと越えて行った。夫にとっては久かたぶりの平地の生活が、妻にとっては想像することもできない明るい町が、その爪さき遠くにはひろがっており、二人をまっていてくれる筈である。そのことを想うだけでも二人の胸には溢れるような喜びが湧きあがってくる。不幸な生活が手をひろげてまっていようなどとは考えることもできないのであった。

能高越えの深い断崖の下からは小やみもなしに、渓流の響が轟きわたってくるし、片側の高い崖土には、高い、細い蔓草が這っていて、白い、小さい花ばなをつけている。夫はそれが内地名では「木朝顔」と呼ばれることをやさしく妻に教える。

霧の深くたちこめたねっとりした空気を裂いて、時折り腸にしみいるような、小鳥の清冽な鳴き声が頭の上をよぎってゆく。妻はその鶯という名をもうとっくに覚えたことを誇らしげに夫にささやく。