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かぜ
風
壺井 栄
「文芸」1954(昭和29)年11月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 38,702 字 · 78 页
安心などではなく、疲れでもない。しいていえば、ある不安感からであった。こんなことをしてよいのだろうかと、それが胸にきて食事もすすまなかった。修造のそばでは考えないことが、ひとりになると一度にむらがり出てくるのだ。しかしまた、問題に直面すると、彼女の決心は石のようにかたくなった。嫂が銭湯にさそうのもことわって、兄だけになるのを待ちかまえてでもいたように、茂緒は帳場の兄のところへ寄っていった。一ぱいきげんで、鼻唄まじりに帳簿をめくっていた房次は、まだ三十そこそこの若さで、もう頭のまん中がうすくなりかけていた。色白の生まれつきなので、酔えば真っ赤になり、上からみると頭の地肌まで赤くすけて見える。
「見物、したかい。」
「ええ。」
「銀座や浅草にもいったかい。」
「ええ。」
とはいっても、彼女はまだ銀座も浅草も知らない。馬鹿の一つおぼえのように、毎日渋谷で修造と落ちあっては玉川電車に乗っただけなのだ。三軒茶屋までの停留所の名はみんなおぼえ、家さがしの帰りにぶらつくことにきめている道玄坂だけが、彼女のしたしんだ盛り場だった。その他はどこへいったときかれたら、どう答えようかと、茂緒は罪の意識をさえ感じ、あわてた。