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もみノきはのこった

樅ノ木は残った

山本 周五郎

線上閱讀山本 周五郎《樅ノ木は残った(もみノきはのこった)》,假名注音日語閱讀。JLPT N2,點詞查義。

N2 · 挑戰 · 新字新假名 · 167,285 字 · 330 頁

青空文庫

三日まえから、甲斐は、この湯島の家へ来ていた、「くびじろ」の角にかけられた傷が痛む、という理由で。事実、その年の梅雨に、傷は痛みだし、夏じゅうひどくこたえた。八月にはいってからおさまったが、医者は「よほど大事にしないとまた冬に痛みだすだろう」と云っていた。

おくみはよく眠っていた。初めて、甲斐と寝屋を共にしたので、すっかり満足し、安心しているらしい。暗くしてある燈火で、いかにも満足し安心しているような、寝顔が見える。おも長な、色の白い顔の、頬から眼のふちへかけて、ぼうと赤らみ、ゆるく閉じている唇も、まるで切り傷のように鮮やかに赤かった。

おくみは仰向けに寝て、薄い掛け夜具を胸乳のところまで掛け、両手は軽くその端をつかんでいた。解いた髪の毛が、枕の外へ垂れている。それはいちど解いて、自分の夜具へ戻るときに束ねたのだが、いまはまた解けて、枕の外へ垂れているのが、ふとすると生き物のように感じられた。

――どういうことだろう。

甲斐はおくみの寝顔を見まもりながら、心の中で思い返した。彼は四十五歳になる今日まで、幾人かの女を知っている。妻の律とは十六年の余もいっしょに暮し、四人の子を生んだ。