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へちまのき

へちまの木

山本 周五郎

「小説新潮」新潮社、1966(昭和41)年3月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 29,120 字 · 58 页

青空文庫

「おれにも覚えがあらあ、いやなもんだったぜ、みんなにゃあ見られるし、笑うやつもあるしな、富坊もさぞ辛かったろう」

「どうだかな」とこちらの男が云った、「町内を廻って来いと云ったのに、野郎、そのまんま神田までいっちまった」

相手の男は聞き違えたと思ったように、どこだって、と反問した。

「神田よ、神田の多町までいっちまったんだ」

「だって」と相手の男が云った、「おめえのうちは川向うだろう」

「川向うも川向う、亀戸の先よ」

「へえー、そいつはおどろきだな」

「おどろきどころじゃあねえや、おれが帳場から帰ると、町内は迷子捜しの大騒ぎよ」

房二郎はゆっくり酒を啜りながら、二人の会話を聞いて思わず微笑し、同時に、すぐ向うにいる男を仔細に眺めていた。男のとしは三十五六、中肉中背の平凡な躯つきだが、焦茶色の乾いた膚と、よく動くおちくぼんだ眼つき、そして、そこだけ際立って赤い唇などが、なんという理由もなく、房二郎の心をひきつけた。――芋汁というのは、とろろ汁の中へなにか白身の魚と青い物がはいっているらしく、男はその汁で酒を一本飲み、次いで、酒と甘煮を注文した。

「多町の自身番で貼り紙を出しているのを、町内の人がみつけてくれたのは、その明くる日のことさ」