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わすれのこりのき

忘れ残りの記

吉川 英治

吉川英治『忘れ残りの記』。同一底本的分册已合并为一书。收入:忘れ残りの記、年譜。

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 193,050 字 · 383 页

青空文庫

あきらかに意識しての行為だった。それだけに長く自責されるだろう。いつか読売紙上の“折々の記”でも書き、又ここでも書かずにいれないでつい書いた。よくよく拭い去れない古傷のようである。

だが、母でさえ、ぼくの行為を知りつつそのときは、ぼくを叱らなかったという事は、もっと恐ろしい事だった。――小島さん夫婦が税務監督局の給仕の口を世話してくれたのは、じつにそんな危機だったから、神の助けみたいなものである。さっそく試験をうけ、いかめしい辞令書を貰った。月俸七円也であった。

横浜税務監督局は、岩亀横丁へ曲がる戸部の大通りにあった。煙草専売局支所と一つ構内にあって、赤煉瓦の洋館の方が監督局であり、半工場的なバラック建てが、専売局の支所だった。

白い作業服を着た女工たちの半身が、工場の窓に並んでいた。ぼくらの常に通う正門道から片側の芝生に望まれるのである。どの女性も看護婦みたいな清潔さに見え、ぼくら給仕は、彼女らの視線の中を使いや用事で通り過ぎるのを光栄にしていた。そのうちにすぐ彼女らの顔のうちでも、或る特定な顔と眸を交じえたり笑顔を交わすようになり、間もなく又、彼女が工場から退けて、自分の着物や帯に返り、お弁当箱を抱えて帰る姿まで見届けていた。