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おうぎの

扇野

山本 周五郎

「面白倶楽部」大日本雄辯會講談社、1954(昭和29)年5月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 33,727 字 · 67 页

青空文庫

一刻ばかりも経った頃、女中のおさとが栄三郎のそばへ来て、おつるにあとの座敷が掛って来たと告げた。

「断われないお客ですから」とおさとは囁いた、「済みませんがお願い致します」

「ああ、いいとも」

栄三郎は頷いておつるを見た。

「私も帰ろうと思っていたところだ、いや本当なんだ」ほかの女たちがやかましく騒ぎだすのを制して、彼はおさとに云った、「もう帰らないと門を閉められる、また明日来るからね」

「どちらへお帰りですか」

おつるが訊いた。

「あっちのほう」と栄三郎は手をあげた、「あっちの町外れの高い処だ」

「ではわたしもそっちですから、そこまでお送りしますわ」

「おつる姐さん」とおさとが眼まぜした、「そんなことをして、もしかみつかりでもしたら……」

「いいのよ、大丈夫よ」

おつるは立って栄三郎を見た。

「あたし支度を直します、すぐにまいりますから」

栄三郎は眼をそらしながら頷いた。大丈夫よ、と云って頬笑んだ顔に、自信のなさそうな、不安そうなかげがさしたからである。なにかわけがあるのだろうと思ったが、勘定を済ませて出ると、おつるも裏口から出て来たところで、ついそのままいっしょに歩きだした。