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おうぎの

扇野

山本 周五郎

「面白倶楽部」大日本雄辯會講談社、1954(昭和29)年5月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 33,727 字 · 67 页

青空文庫

その涙が頬を伝って落ちるのも知らないようすで、おけいは栄三郎をみつめたまま云った。

「先生のことも好きだし、おつるさんも大好きなんです、そしてあたし自分のちからでお二人を仕合せにしてあげられると思うと、嬉しくってもうしようがないんです、わかって下さるでしょ、先生」

栄三郎は頭を垂れた。

「船の者にもそう云ってありますわ」とおけいは云った、「おつるさんは渋るかもしれないけれど、先生がそう仰しゃればいっしょにゆくに定ってます、あとのことはあたしが引受けますから、江戸へいらしったらどうぞお仕合せにね、そして、――おけいのことも忘れないで下さい」

栄三郎は襖絵のほうへ眼をやった。その絵の枯野に落ちている扇子は、落していった人の姿をあらわしている。その人の姿よりも鮮やかに枯野の上の扇子は去っていったその人の姿をあらわしている。

――おけいの心は、この枯野の扇子のように、いつまでも痛く記憶に残るだろうな。

栄三郎はそう思って眼をつむった。

「有難う、おけいさん」と彼はひそめた声で云った、「――いつまでも忘れないよ」

広縁の下あたりで、かねたたきが鳴いていた。