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ぎょもん
魚紋
吉川 英治
「冨士 臨時増刊号」1936(昭和11)年4月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 14,582 字 · 30 页
四
ただ、
『春作が、それを手に入れたら、夫婦になってあげてもいいね。江戸を売って、京都あたりでちんまりと暮してみたい。もう、こんな碁会所なんて懲々だから――』
そんな事を囁いたきりだった。春作は、幾晩も幾晩も、永代河岸を歩いてみた。だが、河の中へ入ってゆく気になれなかった。水が怖いのではなく、世間の眼と世間の灯が、いつも背後で気になった。
『ああ、わしのような気怯れ者は、何をしたって、生きて行く力が足りない。体は弱いし、絵は上手くならないし……。悩むために生きているようなものだ』
ふらふらと引窓の下へ行ったのである。夕方の星が、四角な狭い口から白っぽく見えた。春作は、引窓の綱にすがって、泥竈の上に乗った。
首へ綱をかけ、足を外した。――死んだと思った途端に、上の横竹が折れたのか、古い綱が切れたのか、春作は、流しの手桶の上へ、ひっくり転っていた。桶の水をかぶったので、思わず、大きな声を上げたらしい。
『おやっ、何うなさいましたか』
と、隣家の女房が、駈けて来て、抱き上げてくれた。
四
匕首をつかみ、解けかけた帯の端を左の手で持ちながら、薊の芳五郎は、脱兎のように、木場の材木置場の隅へ逃げこんで行った。