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なつむしあんどん

夏虫行燈

吉川 英治

「婦人倶楽部 別冊付録」大日本雄弁会講談社、1938(昭和13)年8月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 18,200 字 · 37 页

青空文庫

風入れ異変

一

風入れ異変

一

迅い雲脚である。裾野の方から墨を流すように拡がって、見る間に、盆地の町――甲府の空を蔽ってしまう。

遽かに、日蝕のように晦かった。

板簾の裾は、大きく風に揚げられて、廂をたたき、庭の樹々は皆、白い葉裏を翻して戦ぎ立つ――

『おう。雷鳴か』

昼寝をしていた高安平四郎は、顔に乗せていた書籍を落して、むくりと寝転ると、

『……襲るかな? 一暴れ』

頬杖ついて、廂越しに、暫く雲行でも観測しているように、呟いた。

――と。その睫毛の先を、白い電光りが、チカッと掠めて、霹靂はすぐ屋の上を翔け廻った。

『お、大きいぞ。――これやあ、出向かずばなるまい』

平四郎は、刎ね起きて、すぐ身支度した。

甲府城の森や天主には、過去に幾度も落雷の歴史がある。その都度、火災を起しては、苦い経験を重ねているので、大きな雷鳴の伴う風雨には、たとえ非番の者でも、即刻、お城へ馳けつけるという掟になっている。

もっともそれは、俗に『番衆番衆』と称ばれる軽輩の番士役に限ってはいたが。

平四郎は、その組役の一人で、番衆長屋に住む気軽な独り者、然し、年齢はわりあいに取っていて、もう三十は超えていた。