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わすれのこりのき

忘れ残りの記

吉川 英治

吉川英治『忘れ残りの記』。同一底本的分册已合并为一书。收入:忘れ残りの記、年譜。

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 193,050 字 · 383 页

青空文庫

それが母には、どうしても断れないで、じつは初音町付近まで、ネギや片肉の買出しに行くのでも、ついそれに乗ってしまうのである。だから、女中を廃したくせに、八百屋や乾物屋の買物にも、人力車に乗ってゆくといって、界隈の人目が蔭で笑っていたのもむりはない。

また、そのカゴ虎の溜りでは、母のこんな事もよく噂ばなしになった。ある朝のこと、家のすぐ前のきれいな溝川へ、母が髪のかんざしを落したのである。その頃流行った珊瑚の五分珠に金脚とかいう物だったろう。小橋の上から覗いてみると、それは久保山から流れてくる早い水勢で、ちょっと深い。かんざしは、底の方にキラキラ透いて見えている。すると毎朝掃きついでに、ぼくの家の前まで掃いてくれるカゴ虎の若い者が、竹箒を抛って、駈けて来た。そしてすぐ腰まで入って、造作もなくかんざしを拾いあげてくれた。ところが母は「ありがとうよ」と、お礼をいいながら、「それは、あんたへお駄賃に上げる」と、かんざしは、その者に与えてしまったというのである。――まだ家財の売り食いまではやっていない日の事だったのだろうが、そんな妙な気前のある母だったので、落ち目は人いちばい辛かったのではあるまいか。