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わすれのこりのき
忘れ残りの記
吉川 英治
吉川英治『忘れ残りの記』。同一底本的分册已合并为一书。收入:忘れ残りの記、年譜。
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 193,050 字 · 383 页
兄の医学志願は、兄の戸籍の入っている養子先が、井細田村の医者の家だったので、それを継ぐ意志だったものであろう。兄は、その綾部家へ、入籍はされていたが、綾部家の当主は死に絶えていた為、藤本林太郎という縁家先の、前述“ふじ本”に養われてきたのである。
どういう理由か、そのさい父は、政広の医学志望には不賛成であったらしい。そのため、好学の青年は志を得ず、父の意見に負けて、翌日、小田原へ帰って行った。
ぼくの印象にある兄は、女性みたいに優しい感じの青年だった。俗に「痩セ型、中背」というあの通りなタイプで、左の眉の中に大きな黒子があり、頑固な士族あがりの父親とも、このぼくとも、似ている風はどこにもない。
政広は、小田原の花柳界で成人したので、自然、環境からうけた感化が多かったのであろう。後に、ぼくの父母も一驚を喫したそうだが、酒席となると、たいへんな芸能の才で、何をやっても素人ばなれがしていたそうである。けれど平常の兄は、ちっともそんな軽佻の風は言葉の端にも見せず、つつましい好青年であり、又、やたらに人好きされた。ついに医学校には入らなかったが、どこかに薬の匂いがするような医学生に見えた。