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おうぎの

扇野

山本 周五郎

「面白倶楽部」大日本雄辯會講談社、1954(昭和29)年5月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 33,727 字 · 67 页

青空文庫

おつるはそっと彼の手を握った、「そうしたら次の次の日に、樋の山で扇を落せって仰しゃって、それからあたしの落した扇を、丹念に眺めていらしったわ、――あたしそれを見ながら思いましたの、これはきっと絵になさるおつもりなんだって」

「下まで送っていこう」栄三郎は踵を返した、「いいよ、大丈夫だ、駕籠屋のところまでだ」

「嬉しいわ」

「あのときおつるはよくやってくれた」坂をおりながら彼は云った、「わけのわからない無理な注文だったのに、笑いもしないでよく念をいれてやってくれた、おかげで思いどおりのものが描けそうだよ、有難う」

おつるは黙ったままで、(いかにも嬉しそうに)握っている男の手に指を絡み、それをぎゅっと絞るようにした。――駕籠屋の角へ出る手前のところで二人は別れた。どちらもなにも云わず、眼を見交わしただけで別れた。おつるは両端の上へ切れあがった唇をいっぱいにあけた笑顔で、五拍子ばかり彼の眼に見いり、それからさっと向き直って思いきりよく去っていった。

明くる日、栄三郎は少し多いくらいに金を包んで、桑名屋へ届けさせた。

おつるにはもう逢うまい、少なくとも絵を仕上げるまでは逢うまい、と彼は自分に誓った。