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おうぎの

扇野

山本 周五郎

「面白倶楽部」大日本雄辯會講談社、1954(昭和29)年5月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 33,727 字 · 67 页

青空文庫

十一

彼は黙って坂をおりはじめた。

十一

おつるは驚くほど痩せていた。顔色も悪いし頬が尖って、眼は赤く腫れ、唇も白っぽく乾いていた。――それは初めのときとおされた二階座敷で、おつるは障子の蔭に隠れるように立っていたが、栄三郎が入っていって、そこにいるのをみつけると、ぱっと唇だけで笑い、すぐに眼を伏せ、彼のほうへ寄って来て、そっと抱かれながら囁いた。

「――ごめんなさい」

栄三郎はやさしく抱きよせながら云った。

「もうへんな約束はやめだよ、こんども自分で云いだしておいて、またこんなふうではしようがないじゃないか」

おつるは頷いて、彼の胸へ軟らかく凭れかかった。

「私だって逢わずにいればおちつきゃしない」と栄三郎は続けた、「日が昏れて街の灯が見えだすと堪らなくなる、しかし約束だからと思って、いろいろと手を使って、自分で自分をごまかしていたんだ、おちついて仕事をするためにも、逢いたいときに逢うほうがいいんだよ」

「わかりました」とおつるは云った、「これからはもう仰しゃるとおりにします」

しかし、おつるはやがて、三度「もう逢わない」と云わなければならなくなるのである。