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にほんせいしんしけんきゅう
日本精神史研究
和辻 哲郎
推古時代における仏教受容の仕方について「思想」1922(大正11)年7月<br>仏像の相好についての一考察「思想」1922(大正11)年5月<br>『万葉集』の歌と『古今集』の歌との相違について「思想」1922(大正11)年8月<br>お伽噺としての『竹取物語』「思想」1922(大正11)年11月<br>『枕草紙』について「思想」1922(大正11)年9月<br>『枕草紙』の原典批評についての提案「思想」1922(大正11)年9月<br>『源氏物語』について「思想」1922(大正11)年12月<br>「もののあはれ」について「思想」1922(大正11)年10月<br>歌舞伎劇についての一考察「思想」1922(大正11)年4月
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が、それは、打坐が仏祖自身の修行法であり、またその直伝の道だからである。かくて「仏祖の模倣」は彼の修行法の根柢に横たわっている。戒律を守るのも仏祖の家風だからである。難行工夫も仏祖の行履だからである。もし戒律を守らず難行を避くるならば、それは「仏の真理」への修行法とは言えない。
この修行の態度は自力証入の意味を厳密に規定する。確かにここには「たまたま生を人身に受けた」現実の生活に対する力強い信頼がある。この生のゆえに我々は永遠の価値をつかむこともできるのである。が、この信頼は吾我、我執に対する信頼ではない。吾我、我執を払い去った時にのみ明らかにされる「仏への可能性」に対する信頼である。すなわち自己の内にあってしかも「自己のものでない力」に対する信頼である。従って我々は、自己を空しゅうして仏祖に乗り移られることを欲する。乗り移られた時に燦然として輝き出すものが本来自己の内にあった永遠の生であるとしても、とにかく我々は自力をもってそこに達するのではない。我々がなし得、またなさざるべからざることは、ただ自己を空しゅうして真理を要求することに過ぎない。すなわち修行の態度としては「自らの力」