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にほんせいしんしけんきゅう
日本精神史研究
和辻 哲郎
推古時代における仏教受容の仕方について「思想」1922(大正11)年7月<br>仏像の相好についての一考察「思想」1922(大正11)年5月<br>『万葉集』の歌と『古今集』の歌との相違について「思想」1922(大正11)年8月<br>お伽噺としての『竹取物語』「思想」1922(大正11)年11月<br>『枕草紙』について「思想」1922(大正11)年9月<br>『枕草紙』の原典批評についての提案「思想」1922(大正11)年9月<br>『源氏物語』について「思想」1922(大正11)年12月<br>「もののあはれ」について「思想」1922(大正11)年10月<br>歌舞伎劇についての一考察「思想」1922(大正11)年4月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 208,277 字 · 415 页
この意味で道元は、「煩悩即菩提」の思想のうちに生活と理想との或る調和を造り出していた日本の仏教へ、再びあの原本的な「あれかこれか」を力強く引き戻したのである。
が、道元は戒律をそのままに一切の人に課しようとするのではない。仏の模倣者となったものは、すなわち僧は、仏家の風として戒律を守らなくてはならぬ。しかし俗人にとっては、それは必ずしも必要でない。仏は「一切有命の者故らに殺すことを得ざれ」という。「汝等沙門当に愛欲を捨つべし」という。しかし俗人が魚鳥を殺し愛欲に生くることは何の罪とも認められない。このことは戒律から「万人の踏むべき道」としての普遍的な意味を奪う。とすれば、それは道徳としての権威を失いはせぬか。この疑問は僧尼の心にも起こった。ある時一人の比丘尼が道元に問うて言う――世間の女房などにも仏法を学んでいるものがある。比丘尼に「少々の不可」があっても、仏法にかなわぬはずはない。いかん。道元は答えた――在家の女人は愛欲に生きつつ仏法を学んで、なお得ることがあるかも知れない(「たゞこれ志のありなしによるべし。身の在家出家にはかゝはらじ」)。しかし出家の女人に出家の心がなければ、彼女は絶対に得ることができまい。