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さくらのみのじゅくするとき
桜の実の熟する時
島崎 藤村
「文章世界」1913(大正2)年1~2月、1914(大正3)年5月~1918(大正7)年6月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 111,569 字 · 222 页
それはあの生徒が熱心で、下読でも何でもよくして来て、多勢の中でも好く出来るというばかりでなく、日頃勝子の親しい友達であるからであった。
下の組の生徒の中には語学の稽古の後で、思い思いに作った文章を捨吉のところへ持って来るものも有った。さすがに若い人達は自分等の書いたものを羞じるようにして、躊躇がちにそれを取出した。
「先生」
と呼び掛ける声がした。丁度捨吉は教場を出て二歩三歩階下の方へ行きかけたところであった。その時捨吉は、近く来た勝子から彼女の用意した文章をも受取って、黙って階段を降りた。彼女は何事も知らなかった。
「岸本君――君に宛てて書くこの手紙を牛込の宿で受取ってくれたまえ。声のない哀みを湛えた君のこの頃に心を引かれないものが有ろうか。君の周囲にあるものは何事も知らないものばかりだと君は思うか。すくなくもそうした君の心持に対して涙をそそぐものが今この短い手紙を送る」
こういう意味の手紙を捨吉が受取ったのは、新しい学期の始まってから二月近い心の戦いを続けた後であった。その手紙を岡見が伝馬町の自宅の方から書いて寄してくれた。捨吉はそれを見てびっくりした。