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ぶしゅうこうひわ
武州公秘話
谷崎 潤一郎
01 武州公秘話
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 107,572 字 · 209 页
「はやく、………はやくお逃げ………あ、あ、あそばし………」
お春の言葉はそこで途切れて、
「うむ、………」
と呻ったかと思うと、すぐにずしんと地響きを立てゝ倒れる音がした。織部正は咄嗟に息を殺しながらジリジリと廊下の一方へ寄って、壁へぺったり蜘蛛のように背中を吸い着かせてみたが、そうする後から又すうッと追いすがって来た者が、いきなり彼の頸へ逞ましい腕を絡みつけた。絡みつけながら恐ろしい力でぐい/\と彼を壁へ押した。織部正は自分の体が煎餅のように平べったく壓搾されるのを感じつゝ、
「曲者!」
と、何度か声を立てようとしたが、もがけばもがくほど相手の腕が頸部へ深く喰い込んで来た。彼は次第に窒息しかけ、少しずつ痺れて行く意識の中で、「もう助からない、もう殺される」と思った。途端に曲者の掌が自分の顔をぺろりと撫でたように覚えた。彼は直ちに匕首が自分の咽喉元へ突き刺さるだろうと観念していると、曲者は一方の腕で何処までも頸を扼したまゝ、一方の手で二度も三度も顔の上を、恰も舌で舐め廻すようにぺろり/\と撫でるのである。そして最初に片耳の缺けていることを確かめてから、次には兎唇の上を探って、鼻の附け根から突端までを、鼻柱から鼻の孔から小鼻に至るまで綿密に触ってみるのである。