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かぜ

風

壺井 栄

「文芸」1954(昭和29)年11月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 38,702 字 · 78 页

青空文庫

ひょいとのぞいた茂緒は思わず、「あら。」といった。上げ板の上りばなに腰かけていた扶佐子は、庖丁をもったまま大粒の涙をたらたらと頬に流しているのだ。引きもならず困っている茂緒の胸に、小さな扶佐子はいきなりかじりついてきて、こんどはおいおい泣きだした。

「どうしたんですか。ね、どうしたの。」

ひとしきり泣いたのち扶佐子は、急に、えへらえへらと笑いだし、

「奥さんをおどかしたのよ。ほのかにほのかに悲しゅうて、泣いてただけなのさ。」

それはまったく、歌にさそわれて泣いたのを納得させるほど、もう何でもない顔つきだった。扶佐子さん、役者みたいだ。――と茂緒は思う。しかし、彼女と隣り同士に暮すようになってから、茂緒はいろんな疑問がつぎつぎと生まれてきた。あるとき茂緒は、いつものくせで気短なNが小さな扶佐子をいきなり抱いて、玄関のたたきに投げつけるのを見たことがある。泣き声も立てず、やがて扶佐子は、いつもの甘い声で、

「奥さん。」

と、縁側の方からやってきた。そして、

「今ね、けんかしたのよ。わたしに出ていってくれって。Nさんて、いい人なんだけど、お金がなくなるとわたしのせいにしちゃうのよ。