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ぎょもん

魚紋

吉川 英治

「冨士 臨時増刊号」1936(昭和11)年4月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 14,582 字 · 30 页

青空文庫

後は――この碁会所の主が一人。

今し方、夜食の鮓が台所へ入ったから、茶を入れる支度をしているのであろう、茶の間のほうで瀬戸物の音がしている。

『かまきりさん』

そこから声がして、

『もう、お鮓を出してもよござんすか』

伝九郎は舌打ちして、

『よしてくれ、かまきりなんて呼ぶなあ。――悪党じゃあるめえし』

『ホホホホ。だって、呼ぶ人がきれいな女だと、振向くじゃないの』

『からかうのか、師匠』

『よそう、おまえさんが怒ると、ちょっと凄いからね。――お鮓は』

『まだ、山岡屋と玄庵の勝負が片づかねえから、もすこしの間、そっちへ置いといてくれ』

『だいぶ大戦だとみえますね』

そう云いながら、碁会所の女主人は、茶の間から出て来た。髪を切下げにしているけれど、年はまだやっと二十四、五にしか見えない。いつも被布を着て崩したことがない。十六の頃からさる北国の大名のお部屋様として栄華をしつくして来たが、その大名の近習の者と恋をして、やがて浮名が立つと、腹を切った男をすてて、自分ひとりで越後から江戸まで逃げのびて来たという履歴を持っていた。

さすがに、琴、茶、花、何でも嗜みがあって、絵もすこし描くし、わけて碁は生れつきの才分とみえ、大名の奥にいた頃、宗家から女で四段の許しをもらっていた。