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わすれのこりのき

忘れ残りの記

吉川 英治

吉川英治『忘れ残りの記』。同一底本的分册已合并为一书。收入:忘れ残りの記、年譜。

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 193,050 字 · 383 页

青空文庫

自分に子が無かったせいか、ぼくはこの小沼さん夫婦にたいへん愛された。日曜日というと極って「大将サン、遊びにいらっしゃい」と、呼んでくれる。どういうわけか大将サンとぼくを呼び、御馳走してくれたり、汽船の模型やら、豪華な背皮の本を見せたりしてくれた。

よその違った家庭様式にたいして、児童の嗅覚は、大人の考えている以上、敏感である、色の白い奥さんの頬の黒子から絨緞の模様までを、思い出すことが出来るし、ある折、ぼくを独り遊ばせておいて、奥さんと主人の小沼さんが、ピアノかオルガンの前で接吻した姿がいつまでも幼い眸に残った。今でも、外国映画などでおなじシインにぶつかると、それが小沼さん夫妻に見えるような錯覚がふとのぼってくる。

この小沼夫妻の隣家にも、長くは居なかったようである。こんどは少し遠くへ越して行った。山手の植木会社の裏門前で、何万坪もある植木畑や花畑に垣一重なので、広い庭園の中にあるようだった。

引っ越すたびに、家はだんだん大きな家に変っていた。何も知るぼくではないが、この期間に、父は魚市場の書記をやめた。そして、いずれ今でいうブローカーであろうか、羽二重の輸出とか生糸の売買などに首をつッこみ、開港場成金を夢みてか、さかんに居留地の商館や税関あるきなどしていたらしい。