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わすれのこりのき

忘れ残りの記

吉川 英治

吉川英治『忘れ残りの記』。同一底本的分册已合并为一书。收入:忘れ残りの記、年譜。

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 193,050 字 · 383 页

青空文庫

ほどなく、それが縁となって、その頃、横浜の実業界では有力な一人物だった高瀬理三郎氏に知られた。高瀬氏や二、三の実業家と、横浜桟橋合資会社というのをもくろみ、創業に熱中していたのである。桟橋に繋留する外国船の荷揚げとか、石炭食料の補給、貿易品の商社斡旋、何でもといったような建てまえの事業らしかった。

これが当ったものであろう。父の生活は小沼さんの家庭より派手になった。母の身なりも美しくなり、婆やも女中も何人かにふえた。けれど、それによる幸不幸の感じは季節の変りほども子供のぼくにはわからなかった。遊びざかりの腕白になっただけである。ある日の夕方、相沢の町通りで、市中からぞくぞく帰ってくる汚穢屋の馬力車の後ろにブラ下がって、ガラガラ揺られてゆく快感に興じていたことがある。このわるさは、どこの子もよくやる事なので、かねて汚穢屋も心がけていたのにちがいない。次第に馬力車を走らせておいて、そして突然、馬を止めた。その震動で、汚穢桶の物が溢れ飛んで、ぼくは頭から全身にそれを被ってしまった。どう帰ったか覚えもないが、井戸端へ連れて行かれて、母や女中たちに、何十杯もの水をかぶせられた事だけは忘れがたい。