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わすれのこりのき
忘れ残りの記
吉川 英治
吉川英治『忘れ残りの記』。同一底本的分册已合并为一书。收入:忘れ残りの記、年譜。
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 193,050 字 · 383 页
父は、寝しなに限らず、枕元にもそれらのビンを並べさせて眠った。ぼくは真夜中によく眼をさました。そして、父の部屋でする微かな物音に耳をすましたものである。それは猫が舌ツヅミでも打つような怪しさに聞えた。ふと、深夜に眼をさました父が、寝床の中で腹這いのままジンやブランデーなどを独りでカクテルしては飲んでいるのであった。二度でも三度でも、眼が醒めさえすれば飲む。それが父の習性だった。
一升酒というが、父のは底が知れないと、母はよくなげいていた。朝の出勤前から父の姿には酒の香がぷんぷんしていた。
自転車はまだ横浜でさえ珍しい物の一つだった。父はその自転車で通勤もし、よく乗り廻っていたらしいが、自転車の上でもポケットからウイスキーを出して飲み飲み走っていたという噂などを母に告げる人もあった。そのくせ泥酔自転車で往来の雛妓を刎ね飛ばして入院騒ぎを背負ったり、八百屋や豆腐屋の店へとびこんで賠償を取られたり、のべつ手や顔に擦過傷をこしらえていた。
桟橋に繋留中の外国船内で、外人の船長、事務長などを相手に一昼夜飲みつづけ、あげくにそれらの外人数名をつれて、大森のあけぼの、新橋の花月と飲みあるき、その間、飯らしい物は口にせず、幾日目かに横浜へ帰って来た。