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わすれのこりのき
忘れ残りの記
吉川 英治
吉川英治『忘れ残りの記』。同一底本的分册已合并为一书。收入:忘れ残りの記、年譜。
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 193,050 字 · 383 页
そしてその船の出帆を見送るとすぐ桟橋で血を吐いて仆れた。というような愚にもつかない事を、父は自慢らしく、いや、性懲りもなく、酒を飲みながら家庭でもよく云うのだった。
吐血は、それ以前にも何回か見ていたらしい。思うに、もうその頃、潰瘍が癌になりかけていたのだろう。かかりつけの小宮博士は「あなたが酒をやめないなら、私は医師として良心が果せないからもうお宅へは来ない」と、いった。
父は漸く男の四十代を踏みかけていた。遊行坂時代から清水町頃までは、会社も隆運にむかい、横浜埠頭を中心とする商社の内外人に顔もひろくなり、特に花柳界では商売上派手な真似もしていたので、いわば得意時代の有頂天にあったものだろうか。それに身長は五尺六、七寸の壮健な体躯であったから、医者の忠告に耳もかすことではない。
母などはにも、父の前では愚痴もこぼせなかったし、ふと顔いろに出してさえ、忽ち食卓が引ッくり返された。父の酒の膳に見えたお菜の何かを、ぼくが喰べたそうに見ていたらしく、母の袖を引いたのだった。すると父はやにわに、膳の上の物を悉く中庭へ抛り投げて「酒がまずい」と云い「なぜ子供たちにもおなじ物をやっておかないのだ。