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とびら
扉
小川 未明
「早稲田文學」1910(明治43)年4月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 8,143 字 · 17 页
二
別に眼がない。口がない。けれどこの者が囁いたのを不思議と思わなかった。Bは障子を開けて入った。金ペンにはまだインキが乾いていない。書かれた紙の数は分らなかった。Bの眼にはただ虫が紙の上に各自勝手な姿をして動いているように文字が見えた。この瞬間、全く文字というものを忘れてしまった。考えたが一字すら読めなかった。いずれもそれらの文字は曾つて自分と親しんでいた文字であるのに……Bは自分を自分で解することが出来なかった。
文字よりも、金ペンの光るのに気を取られていた。……なにもせず茫然としている自分が分らなくなった。……二分たった。……三分たった。……五分たったようだ。
足音がした! Bは始めて、気が付いてその室を逃れ出た。……振り向いて、病的にもう一度金ペンの光っているのを見た。
二
あれだけの時間があったのに、なぜ文字が読めなかったろう。ただ、青い屈折の多い線が見えたばかりだ。なぜこの脳が働かなかったろう。その瞬間に全く文字を忘れてしまったとは思われない。たしかに心には余裕があった。金ペンに青いインキが染まった具合から、窓から洩れる灰色の光線に輝く一種の調子すら、眼に印象となって残っている。