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にほんせいしんしけんきゅう
日本精神史研究
和辻 哲郎
推古時代における仏教受容の仕方について「思想」1922(大正11)年7月<br>仏像の相好についての一考察「思想」1922(大正11)年5月<br>『万葉集』の歌と『古今集』の歌との相違について「思想」1922(大正11)年8月<br>お伽噺としての『竹取物語』「思想」1922(大正11)年11月<br>『枕草紙』について「思想」1922(大正11)年9月<br>『枕草紙』の原典批評についての提案「思想」1922(大正11)年9月<br>『源氏物語』について「思想」1922(大正11)年12月<br>「もののあはれ」について「思想」1922(大正11)年10月<br>歌舞伎劇についての一考察「思想」1922(大正11)年4月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 208,277 字 · 415 页
とする親鸞の態度と、多分に相通ずるものを持つように見える。が、親鸞においては「許す」ものは弥陀であった。道元においては人である。絶対者の慈悲はすべてを許してしかも自ら傷つかないであろう。しかし人間の慈悲は悪を許すことによって正義を蹂みにじる過ちに落ち入りはしないか。たとえば慈母の偏愛におけるごとく、かえって悪を助長する結果になりはしないか。
慈悲が単に人間の自然的な愛を意味するならば、恐らくこの危険を脱れることはできまい。しかし道元の説く慈悲は身心を放擲したものの慈悲である。我執名聞を捨てたものの慈悲である。それは仏の真理のために、――正義や善に充たされた世界のために、行なわれるのであって、現世的な効果のために行なわれるのではない。従ってそれは、いかなる悪を許す場合にも、悪そのものを許すのではなくして人を憐れむのであることを忘れない。この覚悟ある以上は、いかなる手が助力を求めて差し出されようとも、何の躊躇もなくそれを充たすことができるのである。道元はこのことについて日常の些事を例に引いている、――たとえば人が来て、他の人に物を乞うとか、あるいは訴訟するとかのために、手紙を書いてくれと頼むとする。