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にほんせいしんしけんきゅう

日本精神史研究

和辻 哲郎

推古時代における仏教受容の仕方について「思想」1922(大正11)年7月<br>仏像の相好についての一考察「思想」1922(大正11)年5月<br>『万葉集』の歌と『古今集』の歌との相違について「思想」1922(大正11)年8月<br>お伽噺としての『竹取物語』「思想」1922(大正11)年11月<br>『枕草紙』について「思想」1922(大正11)年9月<br>『枕草紙』の原典批評についての提案「思想」1922(大正11)年9月<br>『源氏物語』について「思想」1922(大正11)年12月<br>「もののあはれ」について「思想」1922(大正11)年10月<br>歌舞伎劇についての一考察「思想」1922(大正11)年4月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 208,277 字 · 415 页

青空文庫

道元はこの主張を謬説と呼ぶのみならず、また「仏法仏道に通ぜざるもの」、「仏をしらず、教をしらず、心をしらず、内をしらず、外をしらざるもの」(正法眼蔵仏教)と呼んだ。何となればそれは、仏の教と仏の心とを別のものと考えているからである。教の外に妙心があるというならばその教はまだ仏教ではない。妙心の外に教があるというならばその妙心は釈迦の正伝した涅槃妙心ではない。もし涅槃妙心が教外別伝であるならば、教は心外別伝でなくてはならないであろう。しかし釈迦が心なき教を説いたと考えられようか。心と教とは一である。釈迦は仏法でない教を説いたのではなかった。涅槃妙心とは三乗十二分教である、大蔵小蔵である(正法眼蔵仏教)。かくのごとく道元は、一方に仏と仏との単伝を主張するにもかかわらず、言語による表現を決して拒否しなかった。言語文字によって妙心が説かれ得ないとするのは、固定的に堕した禅宗においてのことであって、道元の生ける仏法の関知するところでない。

しかしながらまた道元にあっては、言語による表現がただそれだけのものとして独立に通用することも許されなかった。真理は言語によって表現せられてはいる、しかし仏と仏との面授面受によらずしてはその真理を受けることができぬ。