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ぶしゅうこうひわ
武州公秘話
谷崎 潤一郎
01 武州公秘話
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 107,572 字 · 209 页
て何も出て来なかったと記している。尤も本能寺の変の時にも、信長の首が分らないので光秀がひどく気に病んだと云う話があるから、それもまあそうであったとすると、それなら一体、辞世の和歌なぞがれい/\しく載っているのは、誰が伝えたのであろうか。則重は顔を見られるのを厭って、夫人以外の人を容易に近づけないのである。そのうえ女中たち迄が皆猛火に包まれて焼け死んだのに、和歌が記録に残っているのはおかしいと云うことになる。晩年則重は和歌狂であったから、いかさま辞世の一首があるべきだと云うので、何者かゞ後から偽作したように疑えないでもない。兎に角、「筑摩軍記」の作者は筑摩家の遺臣であったろうから、仮に裏面の消息を知っていたとしても、主家の不名誉になるようなことは書く筈がないと思われる。
正史の所伝は正史の所伝として置いて、「道阿弥話」の語るところを紹介すると、八月廿七日の朝、本丸の木戸を破って這入った武州公は、奥御殿に火の手が上るのを見るや、公を目がけて殺到する雑兵共を追い散らしつゝ、愴惶として往年の恋の通い路、―――例の石崖の下へ走って行った。公はその穴の前で甲冑を脱ぎ捨て、身軽ないでたちで坑道を潜り抜けると、渦巻く煙に咽びながら、廊下づたいに、則重夫婦の居間へ馳せ付けた。