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むし

虫

江戸川 乱歩

一~四「改造 第十一卷第六號 六月號」改造社、1929(昭和4)年6月1日<br>五~十二「改造 第十一卷第七號 七月號」改造社、1929(昭和4)年7月1日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 44,053 字 · 86 页

青空文庫

今夜こそ、嘗つては彼の神様であった木下文子が、幾夜の夢に耐え難きまで彼を悩まし苦しめた木下芙蓉の肉体が、完全に彼の所有に帰するのだ。何人も、あの池内光太郎でさえも、これを妨げる力はないのだ。アア、この歓喜を何に例えることが出来よう。透通った闇夜も、闌干たる星空も、自動車の風よけガラスの隙間から、彼の頬にざれかかるそよ風も、彼の世の常ならぬ結婚の首途を祝福するものでなくて何であろう。

木下芙蓉の、その夜の媾曳の時間は八時ということであったから、柾木は七時半には、もうちゃんと、いつも芙蓉が自動車を拾う、大通りの四つ角に、車を止めて待構えていた。彼は運転台で、背を丸くし、鳥打帽をまぶかにして、うらぶれた辻待ちタクシーの運転手を装った。前面の風よけガラスには、ツーリングの赤いマークのはいった紙を目立つ様に張り出し、テイルの番号標は、いつの間にか、警察から下附されたものとは、まるで違う番号の、営業自動車用のにせ物に代っていた。それは誰が見ても、ありふれたフォードの、客待ち自動車でしかなかった。

「ひょっとしたら、今夜は何か差支が出来て、約束を変えたのではあるまいか」