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むし
虫
江戸川 乱歩
一~四「改造 第十一卷第六號 六月號」改造社、1929(昭和4)年6月1日<br>五~十二「改造 第十一卷第七號 七月號」改造社、1929(昭和4)年7月1日
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 44,053 字 · 86 页
待遠しさに、柾木がふとそんなことを考えた時、丁度それが合図ででもあった様に、向うの町角から、ひょっこりと、芙蓉の和服姿が現われた。彼女は、態と地味な拵えにして、茶っぽい袷に黒の羽織、黒いショールで、顎を隠して、小走りに彼の方へ近づいて来るのだが、街燈の作りなした影であったか、顔色も、どことなく打沈んで見えた。
丁度その時は、通り過ぎる空自動車もなかったので、彼女は当然柾木の車に走り寄った。いうまでもなく、柾木の偽瞞が効を奏して、彼女はその車を、辻待ちタクシーと思い込んでいたのである。
「築地まで、築地三丁目の停留場のそばよ」
柾木が運転台から降りもせず、顔をそむけたまま、うしろ手にあけた扉から、彼女は大急ぎで辷り込んで、彼の背中へ行先を告げるのであった。
柾木は、心の内で凱歌を奏しながら、猫背になって命ぜられた方角へ、車を走らせた。淋しい町を幾曲りして、車は順路として、ある明るい、夜店で賑っている、繁華な大通りへさしかかったが、この大通りこそ、柾木の計画にとって、最も大切な場所であった。彼は運転しながら、鳥打のひさしの下から、上目使いに、前の風よけガラスに映る、背後の客席の窓を見つめていた。