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かぜ

風

壺井 栄

「文芸」1954(昭和29)年11月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 38,702 字 · 78 页

青空文庫

「帰ってきたら入れないわ。わたし、よしましょうかしら。」

「大丈夫よ。修造さんのいるところへ連れてってあげますよ。もしも会えなかったら、送ってきてあげるわ。」

まるで小娘にいいきかすような態度だった。そのくせ彼女は茂緒の肩までしかないのだ。どこをどう歩き、どこからどこまで電車にのったのか、その夜の道すじを、茂緒はぜんぜんおぼえていない。わかっているのは渋谷でお汁粉をたべ、多枝と落ちあって三人でカレーライスをたべ、名前だけは知っていた本郷の南天堂という本屋の二階へ上っていったことだった。そこは酒場らしかった。部屋の灯はうす暗く、むせかえるような煙草の煙で、人の顔もはっきり分からなかった。どのテーブルも歌声と議論で賑わっているらしく、騒音が渦巻いていた。

「おお、扶佐さん。」

あちこちから扶佐子を呼ぶ声がした。渋っている茂緒を押しだすようにして、たれかれの区別なく扶佐子は茂緒を紹介した。

「井村さんの奥さんよ。――井村さんの奥さんよ……」

紹介された人の中には、聞きおぼえていた名前が多かった。ドン・なんとか――だの、何々ミセラチ――だの、そんな名の人がみな日本人で、詩人で、そしてみな申しあわしたように髪をながくしているのだ。