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かぜ

風

壺井 栄

「文芸」1954(昭和29)年11月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 38,702 字 · 78 页

青空文庫

「奥さん、ほんとにNさんのゆく先、ごぞんじないんですか。」

部屋の声が一度に静まった。茂緒はいきをのみ、

「ええ。」

「そんなはずが、あるでしょうか。あんなにお仲よしでしたのに。」

「…………」

「かくしてらっしゃるんでしょう。」

「いいえ。」

「おかしいですね。信じられませんわ。」

「そうですか。」

「まったく、油断がなりませんね。」

「そうですね。」

べつにわざとではなかったのだが、そのとぼけたような返事のしかたは相当なものだと、家主の細君の帰ったあと、H夫婦は腹をかかえて笑った。

「でも、こわいのよ、あの奥さん、魔法つかいの婆さんみたい鼻してね。」

扶佐子たちは、もちろん、いったきり姿を見せなかった。こんどは多枝たちがきて、

「わたしたちも、引っこそうと思いますの。一たんべつべつになりますわ。」

月賦の机を不払いのために月賦屋に引きとられてしまい、目ぼしいものは質に入れてほとんど何もなく、多枝がふとんをもってゆくと、Iは、着のみ着のままだった。ずるいくせに卑屈なIは、寒そうに肩をすくめ貧乏ゆるぎをしながら、

「奥さん、電車賃かしてもらえないですか。」

電車賃もなくて、彼はどこへ越してゆくのであろうか。